第59話   庄内の釣の文献   平成15年11月18日  

庄内の釣が初めて文献に出て来る最古の物と云えば庄内藩士豊原重軌(トヨハラシゲミチ16811751) 14歳の時から亡くなるまでの数十年に渡って書いた日記「流年録」と云うものがある。その中の1716年の項に「秋一日、安倍兄弟の誘いによりて加茂(鶴岡市加茂)に釣に行く。かしこにては宅右衛門宅といえる者宅に一宿す。翌日も釣に出て夜になって帰る。」とある。1716年といえば、生類憐みの令で有名な徳川綱吉(16461709)が死んで間もない頃の話である。江戸から遠く離れた東北の片田舎では生類憐みの令は関係なく釣が盛んで大手を振って行われていたのかも知れない。

豊原重軌の祖父は山形の最上義光に仕えていたが、最上藩57万石(最大版図村山、最上、庄内、秋田の雄勝、由利の一部)の改易により浪人となり、寛永10(1633)替わって庄内に入った徳川家の譜代酒井忠勝により家禄100石で召抱えられた。重軌が3歳の時父が急死の為、家禄没収となってしまった。その後重軌は7人扶持を与えられていたが、1715年に書院目付け、1716年には郡奉行となり再び家禄100石を賜り、1733年には酒田町奉行に出世し200石取りとなったという努力の人でもあったようだ。著書に「塩梅問答」、「荘内孝子伝」、「よしなし草」などがある。

次の記録は日本最古の魚拓(摺形スリカタ、勝負絵図とも)1839年の江戸で庄内藩の若殿が釣った「錦糸堀の鮒」が、鶴岡の林家の古文書の中から発見された。これは現在の魚拓の始まりと云って良いと考えられている。文久2(1862)から慶応3(1867)に氏家直綱が釣り上げた魚拓「鯛鱸摺形巻」がある。この頃(文久31863)陶山槁木が庄内の釣の手引書として「垂釣筌」をあらわした。陶山槁木はこの本以前に庄内磯を事細かに書いた「釣岩図解」なる物を著していて、それと対になる物が「垂釣筌」あったのである。この二つの本は藩士の間で評判となり盛んに筆写された。庄内の釣の手引書として最初の大作と云う評価が高い物である。次に幕末から明治(18651867)にかけて釣り上げた大瀬正山の「磯釣勝負絵図巻」がある。

庄内藩の軍学者であった秋保政右衛門親友(18001871)1814年から1870年まで書いていた「名竿は刀剣より得難し」で有名な「野合い日記」の中に竹竿を取りに行った事や釣竿の良し悪し、釣竿についての感想など軍学者らしい観察を述べている。

明治以降には宇野江山の「漫談釣哲学」、「釣の妙味」、土屋鴎涯の「庄内の釣 時の運」、「鴎涯戯画磯釣、釣竿系譜、庄内竿」などの本が刊行された。昭和40年以降では、本間祐介の「庄内竿」、「庄内釣話」、今間金雄の「庄内のクロダイ釣」、根上吾郎の「随想 庄内竿」、「新井田川の鯉」、「酒田の釣と魚拓」等が残っている。